【あいさつ】GKKです。源義光の基本的な情報、河内源氏、そして義光の生きた時代の基本的状況が今日のブログの内容です。
項目としてはつぎの3つです。
1、源義光の誕生と平忠常の乱
2、河内源氏とは
3、前九年の役開始のいきさつ
源義光の誕生と平忠常の乱
源義光は寛徳2年(1045年)の生まれで、父は源頼義で母は平直方の娘。
兄弟は兄が義家、義綱、弟として僧侶になった快誉がいる。
母親は平直方の娘、としか知られておらず名前はわからない。
しかし、平直方はなかなか面白い人物だ。
源氏が勢力を伸ばす前は、平家が朝廷の守りの中心にいた。
この平直方は桓武平氏の嫡流として摂関家、特に権力者だった藤原道長・頼通に仕えていたのです。
そんな朝廷に激震が走ります。
長元元年(1028年)、坂東(関東地方)の房総半島で、同じ平氏の一族である平忠常が反乱を起こしたのです。いわゆる平忠常の乱です。
朝廷はこの乱の討伐に検非違使右衛門少尉だった平直方を向かわせます。
平直方が伊豆や相模で国司を務めて勢力があった事もあるでしょうが、直方にも野心があった。
(関東に勢力を伸ばすチャンスだ)
直方はさらに関東方面への勢力拡大を目指していたのです。
しかし、いざ戦いが始まると平忠常は強くなかなか追討は進まなかった。
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭り抵抗し乱は3年もの長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国は荒廃し餓死者が多数出たという。
これで朝廷は業を煮やし平直方を解任、甲斐守をしていた源頼信に討伐軍を任せた。
平忠常は源頼信の軍にすぐに降伏したというが、それは平直方による持久戦に疲れていたからだといわれる。
面目を失った平直方は、意外な方法で源氏との関係を作る。
娘を源頼信の嫡男・頼義に嫁がせたのだ。
この際、鎌倉にあった屋敷も家臣も持参金として頼義に渡している。
まさかこれが将来、鎌倉幕府につながる決断とは直方は知る由もなかったろう。
こうして源氏と平氏の間に生まれたのが義光となる。
平忠常の乱の後で、源氏は関東に拠点を作り以前からいた現地領主の平氏を勢力に加えながら、大きな力を得ていくのである。
そんな成長著しい源氏の中で義光は成長していくのである。
河内源氏とは
そもそも源氏というのは増えすぎた天皇の子孫を皇室から外して、臣下にしてくものである。
清和天皇の子である貞純親王、そしてその子が源経基で清和源氏の祖となる。
経基の子の満仲には三人の子がおり、長男が頼光で摂津源氏の祖、頼親は大和源氏の祖、そして三男の源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、香呂峰(こうろほう)の館を建てて河内を拠点とした事から「河内源氏」は始まる。
そしてこの頼信が平忠常の乱を治めて、関東に勢力を広げて行くのである。
三男である頼信の家系である河内源氏が源氏の棟梁となっていくのは、関東における圧倒的な軍事力を背景として、この後に起こる前九年の役や後三年の役を指揮していくからである。
単に生まれだけではなく、実力があって初めて棟梁と認められるのは武家らしい。

前九年の役開始のいきさつ
この前九年の役だが鎌倉時代より前には、後に起こる後三年の役と合わせて「十二年合戦」といわれていたようだ。諸説あるが前九年の役は休戦などもあり、トータルで12年あったので「十二年合戦」といわれたが、実際の軍事行動が9年間だった。そしてその後に新羅三郎義光も参加する後三年の役がおこるのだが、この戦いが3年だったため、12年を前の9年と後の3年ということにしようという、鎌倉期以降の歴史家たちの「誤解」とされている。
さて前九年の役だが『陸奥話記』によると、安倍頼良(後の頼時)が徴税を拒否したため、永承5年(1050年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を率いて鬼切部(おにきりべ)で頼良の軍勢と合戦になる。この鬼切部の戦いで国司軍は敗北する。
朝廷はこれはまずいとなり、関東で力をつけていた源頼義を追討将軍・陸奥守に任命して討伐させるという話とされていた。
だが最近の研究では源頼義が鎮守府将軍に任じられるのは陸奥守になってから2年後の天喜元年(1053年)の事である。
朝廷は藤原登任の強引な徴税が紛争の原因とみて、穏健な解決を頼義に求めたと考えられる。
ちなみに当時の国司の任期は4年で、中央は収める税さえ出せば問題なく、追加の徴収は国司の役得とされていた。だから現地の領主たちともめることは頻繁にあったし、先ほど挙げた平忠常の乱も国司との徴税によるもめ事が原因とされている。
朝廷としては役得は認めるものの、「やりすぎ」は注意してもらいたいということだろう。
この役得は正式な税以外にも、中央政府のわいろにも使われており、だれも完全に取り締まるつもりもなかった。
あくまでバランスの問題で、問題を起こすなよといいうことなのだ。
この点、源頼義も心得ており、うまく安倍頼良と交渉している。
頼義が着任してすぐ大赦があったために頼良は頼義に服属し、頼義と同音であることを遠慮して名を安倍頼時と改めたとされている。
だが話は天喜4年(1056年)、源頼義の陸奥守任期が終わりに近づいたころ、胆沢城(鎮守府)で安倍頼時から饗応を催した。権守藤原説貞の子・光貞と元貞もその招待を受けて参加したがその帰り、多賀城(国府)に戻る途中、阿久利川(あくとがわ)付近で一行が襲撃を受けて人馬に損害が出た。
光貞は源頼義に即座に報告、「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義にいったという。
源頼義は安部貞任に出頭を命じたが、頼時は貞任の出頭を拒否し衣川の関を封鎖したため頼義は安倍氏討伐を開始した。
こうして前九年の役は始まったのだ。
任期終了が見える中で始まる前九年の役、誰かの謀略か、はたまた源頼義自身のでっち上げか、河内源氏の武名を上げる前九年の役が始まる。
次回、「河内源氏から甲斐源氏へ(2)・・・源義光と前九年の役②」乞うご期待!

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